Home > Murmur of Reiban-san
れいばんサンのひとりごと

第26球 「野球とは、人生そのものだ」

「あ、兄貴・・・」

バッターボックスに立った兄・宏一の姿を見た途端、花房タツヤは、下から突き上げるような悪寒を身体全体に感じた。
こちらのピッチャーは石川雄二である。あと1人で全てが終わる。何も恐れることはないはずだ。
しかし、見つめる先の兄から放たれる大きな存在感に、忘れかけていた、あの、少年時代に感じた身震いが一瞬にして蘇ってきたのだ。

「快晴高校、サヨナラホームランー!!優勝、優勝です。都内屈指の進学校が、ついに、甲子園出場を決めましたー!」

もちろん、テレビ実況の声が花房宏一の耳に届いているわけではない。
しかし、それ以上に興奮する満場の観客の爆音と対峙しても、宏一はいつものように冷静であり、表情ひとつ変えることはなかった。ゆっくりとダイヤモンドを回り、愕然と肩を落とす相手捕手の横を抜けホームベースを踏んだ瞬間になってようやく、うっすらと《らしくない》微笑みをスタンドに向けた。
その微笑みは、観客席で呆然と立ち尽くす少年タツヤと父のサトシ、そして笑顔の母・あやみの写真に向けてのものだった。


今、バッターボックスで土を蹴る打者・花房宏一の姿は、高校時代のそれそのものだった。

タツヤは身震いを越えて恐怖を全身にまとわされた。中学生の頃から地元を離れ都心で一人暮らしをしていた宏一が、甲子園に出場した経験があることなど全く知らない周囲の者たちは「これで勝った」と安心しきった顔をしている。
それはそうだ。幼少期から愛想は良くないが頭の良かった宏一が、名門の進学校に進んだことを疑う者はいなくても、彼がスポーツ万能、特に野球に長けた体躯を持ちあわせていたことなど、商店街の者たちが知るよしもなかったし、想像もしていなかったのだ。
タツヤは皆の気持ちとは裏腹に、ベンチ前で固く拳を握る。
せっかくここまで結束を強めてきた皆の気持ちを、打ち砕いて欲しくはなかったのだ。
「打たないでくれ、兄貴・・・」
タツヤは心のなかで強く呟いた。
マウンドの石川が、自らの亡霊と決別するかのごとく渾身のストレートを放った。
そして、それを何の迷いもなく、宏一は思い切りバットを振り下ろした。

キン!



ブロロロ・・・

工事車両が幾度となく、商店街の真横の道を通り過ぎる。
げほげほ・・・
少々むせ返ったタツヤは、再び目を開け、車両が進行した先の広場に目をやった。

ここ数年で、馴染みの商店主たちは街から去っていった。
それを、時代の変遷だと割り切れるにはタツヤはまだ若かった。
「寂しいもんだな」
そう呟いた時、わずかな足音を鳴らして隣に男が立った。
「兄貴・・・」
「・・・・・」
何も答えない兄の横顔をチラと見たタツヤは、何かをひとこと言いかけたが、それを制するように宏一が徐に口を開いた。
「オレが、甲子園大会に出場しなかったのは、メンバーたちを裏切った訳でも、そこがゴールだと割り切った訳でも、ましてや、夢を諦めた訳でもない。いや、もしかしたら『諦めた』のは、その通りかもな」
「・・・・・」
「オレが、地方大会で優勝したのにも関わらず甲子園大会に出なかったのは、お前たち家族を守るための《選択》だった」
「・・・・・あ、兄貴」
「まあ、それを選んだことが正しかったのかどうか、今でもわからないがな」
そこまで言って宏一は、商店街の方向に一瞬目を向き直した。

そして再び、眼前に広がる工事現場を見て、こう付け加えた。
「ただ・・・ただこの日を迎えられて、今では良かったと思っている」

真横に立つ、年の離れた弟に向き直って、花房宏一は笑顔を向けた。
「これで、良かったんだろ」


《夢小金井野球場建設予定地》

工事現場に建て置かれた看板が、2人の視線の先で少し揺れていた。

グランド予約 草野球公園3番地 東京バトルリーグ 天気予報 草野球の窓 花房ボクサー犬訓練所 プロダクションNEKOICHI ペンションさんどりよん